ゆみとり

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小十郎重綱と阿梅姫①政宗公のターン!

元記事

 

真田幸村の12歳の娘(超絶美少女)が伊達政宗の仙台藩にかくまわれていた! | BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

100年後に蘇った「真田幸村」家!娘(堀北真希で脳内変換推奨)が伊達藩のNo1イケメンと結ばれる(仙台真田氏・下) | BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

 

いや、長かったですね。最後までお付き合い頂いた方、大変ありがとうございましたそしてお疲れ様でございました。

 

どうしても書きたい、でも短くできないの狭間で、「じゃあ前後編にしちゃえばいいんじゃね?」とやってしまった結果があれです。通勤中やお昼休みにちょっと武将ジャパンでも覗こうかと思った方、大変申し訳ありませんでした。

 

しかし、恐ろしい事に本当はもっと長くなるはずだったのです。書きたい事をつらつらと書いていたらさらっと2万字を超え、いくらなんでもこりゃダメだと色んなエピソードを泣く泣く切り落とし、それであの量。3千字でちゃんとオチをつけて話をまとめられる人に憧れる今日この頃です。

 

さて、「仙台真田氏の興るまで」をさらっと読み返すと、主人公である重綱と阿梅姫+父幸村のエピソードは結構シリアス展開であるのに対し、ここに政宗公が加わってくるとどうにも話がコメディタッチになってしまっている事に気が付きました。

 

これは別に筆者が意図した訳ではなく、書いていたら自然とコメディになっていたのです。つまり彼の生き方がコ……ゲフゲフ、いや、えーっと、字数の制限上、政宗公の格好いい所を削除するしかなかったのが原因です。そうに決まっています。

 

と、言うわけで、今回は書き切れなかった政宗公の格好いいエピソードをここに書き留めておこうと思います。

 

愚痴ですが、政宗公って割り切りが良すぎるんですよね。例えば前編の自分の家臣によその大名が言い寄ってる件なんかでも、他の人なら家臣は大事、でも小早川さんの押しも強いしで困った!みたいなやりとりがあった挙げ句、家臣の貞操を売るという苦渋の選択をしなくてはならなかった!みたいになるはずの所を「じゃアイツにはちょっと我慢してもらうか」とか、すぐに結論が出ちゃう。

 

同じような状況に陥れば、きっと他の人でも結論は似たり寄ったりになる事が多いはず(……たぶん)。でも政宗公は結論に至るまでの早さがハンパない。もう少しさ、こう人間的な迷いとかをさ、書状とか記録に残してくれてればこっちだってそれなりにカッコつけて書けるのにー、といつも思います。まあ、悩まない所が彼らしいと言えば彼らしく、それが魅力の一つでもあるんですけれども。

 

後は「火中(読んだら燃やしてねの意)」の手紙を全部とっといて後世まで伝えちゃう主君愛に満ちた家臣達のせい。みんなして読んだら燃やしてねの手紙をとっといたなんて、政宗公はこの事を知っていたのでしょうか。

 

「今日は字が乱れているから燃やして」「話があっちこっちに飛んでて意味不明だから燃やして」「とにかく燃やして」

何度も書いた「火中」の指示がガン無視されたばかりか、大切に保存されてしまった上、400年後の世間に広くその内容が知れ渡ってしまったなどと、もし政宗公が知ったら床の上を転がって悶絶しそうです。いやあ、ネットって怖いですね。

 

さて、火中ネタはこの辺にして、夏の陣での政宗公のカッコいい活躍についてご紹介したいと思います。

 

武将ジャパンさんに載せる記事と違い、資料確認もそこそこに、思いつくまま書く事にしているブログですので、よく覚えていない所は曖昧にボカして書こうと思います。政宗公の格好いいターン、どうぞよろしくお付き合い下さい。

 

真田幸村の12歳の娘(超絶美少女)が伊達政宗の仙台藩にかくまわれていた! | BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)」において、片倉小十郎景綱の嫡男、重綱が真田幸村(信繁)の愛娘、阿梅姫を妻とするまでのお話をご紹介させていただきました。

 

筆者はああいう合戦話を書くのが大好きです。地面が馬蹄の響きで震動するとか、燃える。

字数の関係で削除せざるを得なかったのですが、あのお話では重綱が阿梅姫を勝手に保護して連れ帰った感じになっていますが、よく考えると、実際の戦場ではそういう訳にはいきませんよね。

 

報告・連絡・相談が重要なのは現代よりもむしろ戦国時代の方で、「真田さんちから可愛いお姫さまが送られてきた!きゃっほい!」と主に相談もせずに連れ帰ったりしたら、万が一徳川に姫の存在がバレた時エラい事になります。

 

なんせ相手は真田幸村の娘。建前の上では、幕府に「真田幸村の娘を捕らえました!」と言って突きだしてやらなくてはならないのです。味方に内緒で敵将の娘を匿ったとか、内通を疑われても仕方がない状況です。下手を打てばお家の取り潰しだってあったかも知れません。

 

当然、顔も頭も身体能力も、おまけに性格すら良い子だったらしい重綱は、この事を政宗公に報告しています。政宗公が「んー、ま、いんじゃね?お前の所で保護すれば?」と言って下さったので、重綱も所領である白石まで阿梅姫を連れ帰る事ができた訳ですね。

夏の陣後の苛烈な落人狩りの嵐吹き荒れる中、伊達家の当主である政宗公の協力がなければ、大阪から仙台に至るまでの道のりを阿梅姫を隠したまま、無事に通過する事などとてもできませんし。

 

しかし、既に大阪城は落城し、幸村公も既にこの世の人ではありません。この上阿梅姫を匿う事は、伊達家にとって何の利にもならないばかりか、大きなリスクを抱えるものでした。

ですが、さすが幸村公の人間観察眼は確かでした。公の申し出を受けるかどうかを決定するのはあの伊達政宗公です。あの、太閤秀吉に臣従するのを良しとせず最後まで逆らった、そして今も徳川に従順であるフリをしながら虎視眈々と形勢逆転のチャンスを狙っている、あの政宗公なのです。

 

事前に交渉があったのか(この可能性が一番高いですね)、重綱の厚意なのかor政宗公の粋なのか、ここから伊達家の総力を挙げての幸村公の遺児救出作戦が開始されます。

 

まずは既に片倉重綱が保護している長女・阿梅姫から。

彼女に関してはどうやって仙台領まで連れ帰ったのか詳しい資料が無いのですが、彼女の場合は凱旋する伊達軍の本隊と一緒だったのですから、関所を通り抜けることは割合簡単だったのではと思います。

 

関所で検問を受けるとはいえ、関所を守る下っ端の兵士やその上司風情(失礼)が、他家の大名率いる軍勢を隅から隅まで調べるなんて事は端から無理な話です。相手は自分達よりずっと身分が上ですから、捜索できる範囲には自ずから限界があります。

 

いくら同じ東軍とはいえ、徳川家及びその譜代の家臣と違い、伊達家などの外様の大名は所詮よその家です。貴人が乗る輿、野営する陣地に持ち込んだ偉い人達の私物等々、これが仕事なんだからと、他家の方が嫌がるのを無理に覗いたりしたらもれなく(検問所の人が)バッドエンド直行の箇所が実にたくさんあります。

 

職務に忠実であるのは美徳の一つですが、戦国時代にこれを文字通り実践しようとしたら、確実にそのどこかの過程で殉職します(例:森長可さんに逆らう等)。いくら疑わしくても、政宗公の乗る輿なんかに同乗してしまえばこっちのもの。阿梅姫に関しては片倉の陣地に駆け込んだ時点で一安心といった所でしょう。

 

次。阿梅姫の妹である阿菖蒲姫のターン。
逃走の手筈が整った時点で、すでに伊達の本隊は仙台領に向けて出発した後で、姉のように偉い人達に保護されながら逃げるという手段が使えなかった阿菖蒲姫。

 

後に残っているのは荷駄や輜重隊、傷病兵を運ぶための荷車くらいです。これでは阿梅姫の時にやったような手は使えません。重綱や政宗様は身分の高い人ですから、幕府に通知した予定に沿って動かねばならず、ちょっと行って助けてくるわ、と言う訳にもいきません。無理に行動すれば幕府に余計な疑いを抱かれる恐れも充分にあります。

 

さて、残された阿菖蒲姫はどうやって徳川の追跡の手を逃れたのでしょうか?

 

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長くなってきたのでちょっと一休み。 イボテングタケ

 

さて、所変わってこちらは幕府の検問所です。今日も今日とて検問所の兵士達が、戦場から逃亡した豊臣方の兵士を見つけ出すべくお役目に励んでいます。

 

サイトの方でも書きましたが、彼らのトップである家康公の意向により、豊臣に与する者と判断されれば即処刑、伏見から京都に至る街道筋には2万もの首が晒され、その上毎日50とも100とも言われる人々が処刑される毎日です。

 

また、検問所だけでなく、戦場付近には落ち武者狩りに精を出す農民や野武士の集団も出没しています。


彼らに渡す金銀や着物などを持っているお金持ちならまた別ですが、幸村公の方の真田家は、ご存じの通り貧乏もここに極まれりを地でいく家でした。その上幸村公の遺児達は、貧乏なのに教養だけはしっかりある上に幼く、とても溢れる気品や教養を隠して農民の子に化けるなんて芸当は不可能です。

 

真田側にはすでに姫を充分に護衛できるだけの人員は用意できず、かと言って大阪や京都の付近に彼らを匿ってくれるような有力者のツテもありません。

 

しかし、この状況で姫は無事仙台領まで逃げおおせる事に成功します。これが現代のスパイ映画もかくやという大がかりなもの。

さて、読者の方は見当が付きましたでしょうか。回答編です。

 

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大阪城の落城からさほど経っていないある日の事。再び舞台は検問所です。

ある時、北へ向かう関所の一つに、幌を被せ、幟を立てた荷車の一団が通りかかります。
一団と書きましたが、その数は半端ではなく、荷車の列は関所から延々と続いたそうです。


当時、幌と幟付きの荷車と言ったらただの足軽が乗ったりするものではなく、それなりの身分の人や大事なものが乗せられて運ばれているものでした。

そんな仰々しい集団が来るなどと連絡を受けていなかった検問所の人達は、慌てて行列の先頭、この集団の責任者であろう騎馬武者の元へと向かいました。

 

騎馬武者が差し出す書状を見れば、そこには伊達家の当主の花押と共に、幕府の通行を許可する旨の書き付けがあります。そう言えば、こんなド派手な行列とは聞いていなかったものの、確かに伊達家の荷駄隊などが通過するだろうという事は聞いていたな、と役人にも思い当たる事がありました。

 

「して、この幌の中は何を?」
「今度の戦で傷ついた兵士を運んでおります」
「この行列全てが?これもお役目ゆえ、失礼致す」

 

そう断って幌の中を覗き見れば、中は惨憺たる有様でした。
手のない者、足のない者、鼻が欠け、目を抉られ、腹に巻かれた布を真っ赤に染めて、苦痛に表情を歪め、唸り、のたうち回る者……

 

この時代、基本足軽などの傷病兵の帰郷方法と言えば、歩けるものは歩き、歩けない者はせいぜい荷車で運ぶ位が普通だったのですが、流石伊達家は行きも派手なら帰りも派手でした。

 

天下の趨勢を決定づけた大阪の役に出陣し、勇ましく戦って死んだ者が英雄であるならば、傷ついた者もまた英雄であるに違いなく、その彼らが、苦痛に呻きながら遠く奥州までの道のりを歩いて帰らねばならないなどとは余りに不当であるとして、伊達家の当主政宗公は彼らが歩かなくても済むようにと馬車を用意し、さらに彼らが5月の陽の光や強い風に晒されて苦しむ事がないようにと、その上に幌を被せて幟まで立て、彼らがこの度の戦で勇敢に戦った英雄であると道中の人々に知らしめるようにして行軍しているというのです。

 

これには検問所の人も驚きましたが、よくよく考えてみれば、伊達公の仰る事はもっともです。
身分が高かろうが低かろうが、傷が痛んで苦しいのは皆同じです。ただ、時代が時代ですから、戦が終わった後の兵士のケアまでは、どの大名家も手が回らないのが現状でした。これまでは、傷ついた兵士のケアに資金を投入するよりも、次の戦に備えなければいけなかった時代だったのですから。

 

他家の事とは言え、最前線で戦った伊達軍の一般兵がそのように大切に扱われているという事は、同じ下級~中級武士の一人である検問所の役人にはとても嬉しく、ありがたい事でした。

 

「ささ、どうぞお役目を果たされよ。もっと奥まで」
「い……いやもう結構、通られよ」
「いやいやそう仰らず。もそっと奥まで」
「いやいや」
「いやいや」

 

そして相反するようですが、はっきり言って戦の傷って半端ない。それで苦しんでのたうち回っている人をいつまでも見続けるなど、いくら戦国期の人でもそんなに楽しいものじゃない。はっきり言うと見たくない。


どこまでも続く幌馬車の中の惨状を見聞する内に、検問所の方達もすっかり嫌になってしまい、「もう分かったから早く通ってくれ!」
と、幌馬車隊を通したのだそうです。どれだけの数の車両を用意したんでしょうね。

 

この伊達家の幌馬車の噂は、しずしずと進む当の彼らよりずっと早く先々の検問所に伝わりました。
彼らが検問所に着くと、「分かったから早く行ってくれ!」という反応をする検問所もあれば、わざわざ検問所の一番偉い人が出てきて薬などを提供してくれる事もあったそうです。そしてそのどちらの場合でも顔パス。

 

こうして、目立って目立って仕方なかった伊達の幌馬車隊は、ろくな検問も受けることなく仙台までの数々の検問所を抜けていったそうです。

 

さて、数ある幌馬車隊の中に、一際重傷者ばかりを選んで乗せているものがありました。
どの者も体中を白い布で巻かれ、その下から真っ赤な血が滲み続けています。
手の無い者、足の無い者、その下はどうなっているのか、顔の半分以上を布で巻かれた者……一人は苦痛のあまり獣のような呻き声を上げ続け、一人は家族でしょうか、誰かの名前を呼び続けています。地獄がこの世にあるのならば、ここがそうかと言うほどの有様でした。

 

……が、幌馬車が仙台領の中へと入った途端

 

「あぁ、疲れたあ」
「マジ寝飽きた」※筆者の妄想です

 

体中を白布で巻かれ、今の今まで苦しみのたうち回っていた重傷者が、一つ大きな伸びをすると、次々と馬車の中から出て歩きだしたではありませんか。

 

そして、重傷を装っていたらしいこの集団の中に、一際小柄な兵士が一人おりました。
歩き方もどこか頼りなく、顔や体のほとんど全てを布で巻かれた彼は、隻腕の屈強な大男に付き添われ馬車から降りてくると、物珍しげに辺りを見渡しました。
幌馬車に乗っていた者全てに傅かれ、久方振りに全身を覆っていた白布を解いてもらって現れた彼の素顔は……


「姫、ここまでくればもう大丈夫ですぞ」

 

そうです、この小さな貴人こそ、真田幸村の遺児の一人、阿菖蒲姫だったのです。
この後、阿菖蒲姫も白石入りし、片倉重綱に保護されていた姉、阿梅姫と奇跡の再会を果たしています。

善悪、明暗入り乱れ、どちらが正義か、何が悪か、戦っている者にすら分からなくなるような大阪の役にあって、こればかりは本当に良かったですね。

 

それにしても、いやあ、大掛かりですねー。
山道を修験者の格好して少人数で逃げるとかじゃない所が政宗公らしいというか、ああ、彼の発案だろうな……と根拠もなく思わせられます。

 

「日本一の兵」と東西の諸将に称賛された知勇兼備の人とはいえ、当時は敗軍の将の一人に過ぎない幸村公の遺児の一人、阿菖蒲姫を政宗公が救ったお話はこれまで。

 

本当は真田大八の脱出についてもこの記事で書いちゃおうと思っていたのですが、あんまり長くなったので今回はここまでとしたいと思います。大八の脱出もこれまたすごいんだ……その内書こうと思います。
お付き合いありがとうございました!

 

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ヒナノヒガサ。とても小さいのですが、オレンジと緑の対比が美しいキノコです。